アスレティック・ビルバオが貫く“バスク属地主義”とは
バスク純血主義と表現すれば、一切の混血を許さないバスクの血筋のみを持った選手でチームを構成するという哲学になってしまうが、クラブを取り巻く環境にも若干の変化が生じ始めているのが現実である。
つまり、「バスクで生まれた」「バスクで育った」という文化的条件が満たされると、アスレティックビルバオに入団することが出来るという新たな“法律”が出来つつあるのだ。よって、ここ数年では「バスク純血主義」というパワーワードは姿をくらませ、「バスク属地主義」といったクラブポリシーが姿を表し始めている。
前回書かせて頂いたアスレティックビルバオの“バスク純血主義”から見る「在日コリアンサッカーの未来」では、多大な制限下のなかでも強さを誇り続けている背景を考察したが、その「原石を活かす」という点で、また注目すべき代表チームがある。
サッカー、アイスランド代表だ。
ワールドカップ史上最も人口の少ない代表チーム「アイスランド代表」
「UEFA EURO2016 フランス大会」で見せた、“少数精鋭軍団”アイスランド代表の「バイキングクラップ」を覚えているだろうか。
彼らは試合に勝利した後、アイスランド代表のファンサポーターと共に、両手を大きく構え、雄叫びを上げながら拍手を鳴り響かせる「バイキングクラップ」という儀式を行った。その様子は瞬く間にSNSやTVを通してピックアップされた。
例えば、大企業の代表が一人一人の社員を緻密にマネジメントすることは極めて難しいが、社員10人にも満たないベンチャー企業であれば、代表自らが一人一人と対話し社員のコミットメントを高めることが出来る。
このように、アイスランドサッカー協会も各地域の指導者やサッカークラブと連携を図り、情報交換を緻密に行うことによって、理念や方向性のすり合わせを行うことが出来た。
「すくい上げられる人材は全てすくい上げる」という戦略が現在のアイスランド代表の立ち位置を導いているのだろう。
「徹底された価値観さえ持っていれば強豪国をも倒すことが出来る」という自信が、国民のアイデンティティとなった。そのアイデンティティこそが、今のサッカー界に欠けつつある“ロマン”ではないだろうか。
そして、我々の身近にもアイスランド代表のように「すくい上げられる人材は全てすくい上げる」という理念で闘う集団がいる。
バスクとアイスランドと在日コリアンサッカー
日本には幼稚園から大学まで在日コリアンが母国の歴史や文化を学ぶための朝鮮学校が存在している。そのなかでもサッカーが占める期待値は非常に大きく、自分達のアイデンティティを表現できる一つのカルチャーとしてサッカーが育まれてきた。
日本のサッカー人口よりも圧倒的に少なく、環境やシステムの完成度も日本のサッカーには及ばない。しかし、在日コリアンのサッカー少年は先輩たちと同様にプロサッカー選手になることを夢抱き、プロ予備軍とされる人材が今も輩出され続けている。
つまりは“足りないこと”を武器にしたのだ。
いまスポーツが果たすべき役割とは
そもそも、社会がアスリートを輩出することによって享受出来るメリットとはどのようなことだろうか。
社会とは、まったく同じ境遇や民族の人だけで構成されている訳ではない。多種多様な人々が交わり生活を共にしている。そして、人々はその互いの違いから生じる「コンプレックス」を抱え、社会との対峙のなかで自分はどのポジションにいるのか、何に依って立っているのかを考える。その過程で生まれた“ポシジョン取り”こそが「アイデンティティ」なのだ。
アスレティックビルバオのバスク人は、クラブ哲学に共感することによって自らの民族に誇りを感じた。
アイスランド国民は、代表チームの躍進を胸に「我々は自分たち以外の何者にもなれない」とコンプレックスを肯定することでアイデンティティを確立させた。
在日コリアンは、サッカーという“国技”をもって「反骨心」や「矜持」を育み、マイノリティである自身たちを守り抜いてきた。
情報が錯乱するいま。スポーツが持つ意味が問われ始めている。
隣の芝生が青く見えてしまう気持ちもよく分かるが、守り通してきた“良きもの”を決して見失ってはいけない。そしてスポーツには、その“記憶の中にある良きもの”を呼び起こすだけの力があるのではないだろうか。
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