【「僕にはプライドも人種の偏見も無い」アルゼンチンにルーツを持つフットボーラーが掲げる“信念”とは】栃木SC エスクデロ競飛王選手


 スペインとアルゼンチンにルーツを持ち、Jリーグ(日本)、Kリーグ(韓国)、スーパーリーグ(中国)と幾度も海を渡り歩いたプロ16年目のエスクデロ競飛王は、我々アジアのサッカーにどのようなイメージを抱いているのだろうか。
 アルゼンチンや韓国には命を懸けた「競争」があり、「一生懸命」と「死にもの狂い」の明確な違いが存在する。そして、その違いを生み出す最大の要素こそがルーツそのものであり、育って来た背景だ。数々のサッカーカルチャーを経験してきたエスクデロ競飛王は何を想うーー。


母を見て「これ以上仕事をさせたくない」とプロになることを決心。

ーーエスクデロ選手は、スペインで生まれ、アルゼンチンで育ち、16歳の時に日本でプロサッカー選手になりました。どういった経緯だったのでしょうか?

     

エスクデロ選手:「僕たち家族はサッカーファミリーなんですが、エスクデロ家のサッカー史の中で日本の扉を開いてくれたのは、僕の叔父です。1979年に日本で行われたU20ワールドカップに、マラドーナやラモン・ディアスと共に僕の叔父であるオスバルド・エスクデロがアルゼンチン代表として来日し、優勝しました。
 叔父はその後、1993年のJリーグ開幕直前まで三菱重工サッカー部(現浦和レッズ)でプレーするんですが、契約満了を言い渡され、Jリーグ開幕に向けて外国人選手を探していた浦和レッズに叔父が僕のお父さんを紹介し、次はお父さんが浦和レッズに入団。そうして僕たちは家族で来日し、1996年の終わり頃まで僕も日本で暮らしました。お父さんの現役引退後、一度アルゼンチンに戻るのですが、2001年に仕事を求めて再び家族と日本へ。そこからはずっと日本に住んでいますし、これらは全て叔父のおかげです」
    

ーーそうだったんですね。スペインやアルゼンチン、日本を往復する青春時代を過ごされた訳ですが、その間もサッカーは変わらずプレーされていたんですか?

   
エスクデロ選手:「スペインのグラナダで生まれ、アルゼンチンに行ったり日本に行ったりを繰り返していましたが、ボールは常に右足にありました」
   
ーープロになりたいと思い始めたのはいつ頃からですか?
    
エスクデロ選手:「それは中学2年の時です。父はプロの厳しさを知っていたからこそ、僕にプロになれとも言わなかったし、僕自身も難しさを知っていたので、安易にプロになりたいとは言っていなかったです。だから、プロにならなくていはいけないというプレッシャーもなく、サッカーがただただ好きでした」
    

ーー好きなサッカーを続ける中で、プロサッカー選手になりたい思うようになったキッカケはあったんでしょうか?

    
エスクデロ選手:「お父さんは日本でプロとしてお金を稼いでいたんですが、その後アルゼンチンの不景気のなか様々な事業にチャレンジし、仕事を求めて日本にやってきたんです。家族で狭い家に住み、お母さんも朝から晩まで工場で働いていました。当時中学2年生ながらにその姿を見て、『自分がプロになってお母さんが仕事をせずに済むような環境を作ってあげたい』。そう思い、16歳までにプロになれなかったら、サッカーも高校もやめて仕事をしようと決心しました。父は17歳でプロになったので、自分は16歳までになろうと。僕は決めたら絶対やるという性格だし、自分の決意を親にも伝えました。とにかくこれ以上お母さんに仕事をさせたくなかったんです」

 エスクデロ選手は、2005年4月29日に16歳7ヶ月という異例の若さで浦和のトップチームに登録され、念願のプロの夢を叶えた。2005年から2012年まで浦和レッズに在籍し、「81試合出場7得点」を記録。2008年にはU-23日本代表にも選出される。


真の競争とは。「アルゼンチンの子供たちは死にもの狂いでボールに食らいつく」
    

ーー固い決意だったんですね。世界中で愛されるサッカーですが、自身が生まれ育ったルーツや背景が直接プレーに影響すると思われますか?


エスクデロ選手:「その影響は大きいです。そこの部分で日本とアルゼンチンを比較するとするならば、一番の違いは『競争』です。日本にはまだまだ育成年代からの“本当の意味”での競争が少ない。例えば高校の部活は、良い意味でも教育的観念が強く、プロを育成する為の組織ではない。そのなかでいい選手が生まれたらプロになれるが、それは本当の競争ではない気がします。Jリーグの下部組織や街クラブでもそうですよね。6年生でセレクションに受かった選手はその後の中学3年間が保証されてしまう。ユースも一緒。中学3年生でセレクションに受かれば、高校の3年間が保証される。
 アルゼンチンの下部組織の場合、88年生まれのカテゴリー、89年のカテゴリーと分けられていて、一年ごとに、選手の入れ替えを行うんです。アルゼンチンでは小学4年生以降になると、チームの大体35人中15人はクビを宣告される。その競争が小学4年生から高校3年生まで毎年繰り返されるんです。例えばその競争を18歳まで勝ち抜いたとしても、残念ながらプロにはなれませんと宣告されたら、何も残らない。だから、アルゼンチンの子供たちは本当に死にもの狂いでボールに喰らい付きますし、これがアルゼンチンの競争です」
    

ーー競争の違いですね。韓国 Kリーグでのプレー経験もありますが、韓国でのサッカー文化はどうでしたか?

    
エスクデロ選手:「僕がFCソウルや蔚山現代(共にK1リーグ所属)でプレーしていた時に感じたことですが、韓国には徴兵制度があって、社会的にも軍隊的な雰囲気というか風潮が残っていて、韓国ならではの規律正しいマネジメントが、サッカーにおいて良い方向に影響していると感じられました。アプローチの方向性は違えど、アルゼンチンに似た『競争』が韓国にはあったんです。アルゼンチンでは『家族を養うためプロになってお金を稼ぐんだ』というハングリーさがエネルギーに変わっているし、韓国では厳しい縦社会のなかで『期待に応えるんだ』という強い気持ちがエネルギーに変わり、一つのボールにかける球際の強さが群を抜いています。両者ともに人生をかけていますよね。そういった意味でも、韓国や朝鮮ならではの目に見えない勝負強さの秘訣はそこにあると僕は思っていて、近隣国でありライバルでもある韓国と日本の差をあえて挙げるとするならば、それはサッカーに対する気持ちの懸け方です。『一生懸命』と『死にもの狂い』は大きく違うんですよ。サッカーがなければ食っていけない人達に、サッカーが無くてもいい人達が勝つのは難しいです」

 エスクデロ選手は浦和レッズを退団後、2012年7月にK1リーグのFCソウルにプレーの場を移した。韓国でもエスクデロ選手が持つテクニックは異彩を放ち、「86試合出場14得点」と大車輪の活躍を見せた。また、アジアチャンピオンズリーグ(ACL)ではその才能と勝負強さを遺憾なく発揮し、チームの決勝進出に大きく貢献。
 その活躍はアジア市場にまで話題を呼び、2015年2月に中国サッカー・スーパーリーグ 江蘇蘇寧足球倶楽部に移籍した。
    
ーー例えばそのような境遇に生まれなかった選手のなかでも、『闘える選手』はたくさんいますよね。その選手達に共通する部分はありますか?
    
エスクデロ選手:「『謙虚さ』と『不要なプライドをいかに切り捨てられるか』ですかね。いま僕がプレーしている栃木SCはこの両面を兼ね備えた選手達が揃っています。みんな謙虚なんですよ。だから、あそこまでの団結力と一体感を創り出すことが出来る。
 育成年代から『エリート』と言われ続けた選手と、常に競争があるなかで挫折を繰り返した選手とでは、この謙虚さとプライドの部分で違いが生まれます。栃木SCには挫折を経てきた選手がたくさんいるし、競争がある環境なので、チヤホヤされたとて、調子に乗る時間も無いんですよ。また次の競争がやってくるので。
 そういった意味でも、何度も挫折を経験してきた選手は強いし、選手寿命も長いです。メディアもちょっとした活躍でマラドーナみたいな扱いをしちゃうと、それこそ不要なプライドを形成させてしまう。評価する人達も含めて変わらないといけないですよね」


  中国サッカー・スーパーリーグ 江蘇蘇寧足球倶楽部でも29試合出場6得点と確かな結果を残したエスクデロ選手は、2016年に京都サンガF.Cに完全移籍し、Jリーグにカムバック。京都サンガでは、86試合に出場し、6得点を挙げている。
 2018年7月には期限付き移籍でK1リーグ 蔚山現代FCに加入。再び戻った韓国でのプレー期間はわずか半年間であったが、14試合3得点と、“助っ人外国人”としての仕事を果たした。
 2020年からはJ2 栃木SCでプレーする。


海外で結果を出す為の秘訣は「目の前の人間を好きになる」こと。


ーー日本、韓国、中国とそれぞれのリーグで確かな結果を残しています。その理由は何処にあると思いますか?

    

エスクデロ選手:「僕はプライドも持ってなければ、人種に対する偏見も一切持っていません。だから、海外チームに飛び込んで、言葉が通じなくても一緒にカフェに行ったり、お酒を交わしたり、そういう場に自ら行けるんですよ。こういうことってめちゃくちゃ重要なんですけど、実は出来ない選手も多い。本気で『お前たちと一緒の時間を過ごしたいんだ』という姿勢を示し続けることによって、海外の選手たちは『自分たちのことを受け入れてくれているんだ』と感じるんです。何故なら、海外に行くということは外国人助っ人として行くわけであって、微妙な距離感が生まれてしまいます。僕はその雰囲気を一切出さないから、パスも来るし、結果も出せる。白人だろうが、黒人だろうが、何処の国の人だろうが、目の前の人間を好きになることが、海外で活躍する秘訣です。
 さっきの話にも通じますが、『なんで俺のやり方をわかってくれないんだ』というプライドではなく、僕が彼らの国に行っているわけだから、まずは自分がその国のことを受け入れて知る。そして、何よりも一緒に楽しむこと。本当にお前らと一緒にいたいんだっていう気持ちを持ち続ける。だからこそ、プライドなんて捨てた方がいいんです」
   

ーー本メディアのiudaでは、多くの在日コリアンを取り上げてきました。アルゼンチンにルーツを持つエスクデロ選手から見た「在日コリアンフットボーラー」はどのように映っていますか?


エスクデロ選手:「日本語を喋って、日本に住んでいても“血”は日本ではない。皆さんもそうじゃないですか。家に帰れば、朝鮮・韓国の料理が出てきて、結婚式では民族衣装を身に纏う。異なる文化を持っているが、日本のなかで生きていかなくてはいけない。それは僕も在日コリアンも。さっきの話ではないですけど、日本の文化を受け入れないといけないし、その中で苦い経験だったり嫌な思いをして、成長してきている人達が多い。境遇が似ているからこそ、共感できますよね。
 だから、相手が僕みたいな見た目の人でも、人間として信頼してくれるし、受け入れてくれる。同じような生き方をしてきたからこそ、僕が今まで出会ってきた韓国・朝鮮の方々とは本当の信頼関係を築けています。僕のことをベテラン選手としてではなくて、一人の人間として接してくれますし、信頼を信頼で必ず返してくれます。
 僕の家族も一緒。僕が信頼する人間は、僕同様に家族もウェルカムで全幅の信頼を寄せてくれるんです。これって当たり前だけど、なかなか難しんですよ。僕にとっては、在日コリアンのみならず、本当に意味で心と心が通じ合える家族のような関係が一番大切だと思っています」
   

ーー貴重なお時間とたくさんの素晴らしいお話、ありがとうございます!今後のご活躍も期待しています!