【夢を叶える為の道筋に遠回りは無い】カマタマーレ讃岐コーチ 金正訓氏(前編)


 「夢を叶える為の道筋に遠回りは無い」

 力強い眼差しで話すのは、大阪生まれの在日コリアン・金 正訓氏(キン・チョンフン・34歳)だ。

 金正訓氏は、プロサッカー選手・通訳・コーチ・強化部を経ながら、幾つもの“転機”を迎え、幾つもの“選択”を下しながら、自身の夢を叶える為に唯一無二のキャリアを突き進んでいる。 


 プロサッカー選手としてキャリアをスタートさせ、サガン鳥栖やJFLリーグ所属のMIOびわこ草津(現・MIOびわこ滋賀)でプレーした後、監督通訳としてサガン鳥栖に復帰をしてコーチ・強化部としてチームの躍進に貢献する。2020年シーズンからは、J3リーグに所属するカマタマーレ讃岐でトップチームコーチとして活動し、日本での指導者ライセンスの最高位資格である『日本サッカー協会公認S級ライセンス』を取得する為の権利を取得した。

 その時々の紆余曲折を自らの意思で正解に導き、ブレることなく自分ならではのロードマップを持ち続けている、金正訓氏。


 何故、度重なる転機のなかで、独自のキャリアを築くことが出来たのだろうかーー。 


年代別韓国代表へ選出。「アジア制覇」を経験

 時は遡り、金正訓氏は学生時代から名の馳せた存在だった。

 中学時からガンバ大阪の下部組織で、かつて名門ACミランで10番を背負った本田圭佑選手や、2018シーズンJリーグMVPである家長昭博選手らと共にプレーする。高校時にガンバ大阪ユースに昇格してからも、一年生ながら家長選手と共にスタメンとして抜擢され試合に出場し続けた。

 そして自身の国籍である『韓国代表』にも選出される。年代別韓国代表として、2002年に「AFC U-17選手権」に出場し、一試合を除く全試合にスタメンフル出場を果たし、チームの『アジア制覇』に大きく貢献する。翌年には「2003 FIFA U-17世界選手権」に出場し、世界を舞台に着実に国際経験を積んでいた。

 当然ながら、ガンバ大阪のトップチームに昇格することをビジョンの道筋に設定していた。そこからプロサッカー選手としてのスタートを切ることが当たり前だとも思っていた。

 

 しかし、日本と韓国代表の活動スケジュールの差異も影響して、ガンバ大阪ユースでの出場機会が徐々に減っていき、ユース卒業時にトップチームに昇格することが出来なかった。「当時は大学で4年間を過ごすことに勿体なさを感じていた」と話すように、トップチーム昇格を逃した後に大学には進学せず、1年間無所属選手として各クラブへの練習参加を繰り返す。


入団一年目にサッカー選手として挫折。転機の"種"

 2006年、19歳の金正訓氏はガンバ大阪ユース卒業後、プロサッカー選手として入団を勝ち取った。そのクラブは、後に金正訓氏が通算11年間在籍することとなるサガン鳥栖だ。

 当時J2リーグに所属していたサガン鳥栖は、自前のクラブハウスが無く、練習グラウンドも保持していなかった。その中で「自分にはエリート街道を突き進んできたという過信があって、プロで戦っていくうえでのメンタリティを兼ね備えていなかった」と挫折を味わいながら自身を分析した。

 「その時はサッカーが上手くいってなくて、とにかく自分が置かれている状況に納得がいっていなかった。サッカーをプレーしている時間が苦しくて、『もうサッカーはいいわ』とも思った」と話すように、1年経たないうちに志半ばサッカー選手としてのキャリアに蓋をしてしまう。


 しかし、そこには後の転機を引き付けることとなる“種”が蒔かれていた。

 「当時ユン・ジョンファンさん(現ジェフユナイテッド市原・千葉監督)が選手としてサガン鳥栖に在籍していました。一年間厳しく指導してもらい、色んな事を教わったし、僕自身もユンさんの立ち振舞いから何か一つでも盗んで学ぼうと過ごしていました」

 選手時代から同じピッチに立ちながら、韓国代表の大先輩でもあるユン・ジョンファン氏から、一人の人間として多くのことを学んだと話すように、2006年7月から韓国語通訳としてサポート役に回っていた。

 「サッカーが本気で嫌で、当時はその状況から逃れたいという気持ちもありました。そういった意味で通訳としての道を選択したけど、本気でサポートしていくうちに、サポートする楽しさと、やりがいを感じるようになっていました」

   
取り戻したサッカーへの情熱。そして突然訪れた転機


 2006年をもってサガン鳥栖を退団し、翌年にルネス学園に入学する。

 「サッカー選手として失敗した僕を心配して、父が紹介してくれたんです。そこでは柔道整復師になるための勉強をすることになったんですが、なんせ続かなかったんですね。自分がしたいことでもなかったので、直ぐサッカー部の活動に専念できるスポーツ科に籍を移しました。いま考えると有り難く幸せな話だったんですけど、僕にとっては特にやりたい勉強ではなかったので、続けることが出来なかったんです」と話すように、ルネス学園甲賀サッカークラブで再度サッカー選手としてプレーに専念し始める。

 カテゴリーこそプロと比べると落ちる関西社会人リーグではあったが、「皆と一生懸命プレーするうちに、もともと持っていたサッカーに対する気持ちが湧き上がってきて『サッカーが好きなんや』という原点に立ち返ることが出来ましたね。もう一回ピリピリした空気でサッカーがしたいと思うようになりました」と、本来の自分の姿を取り戻す。

 再び“上の世界”での刺激を求め、2009年にJFLリーグのMIOびわこ草津にプレーの場を移す。新天地でのサッカー選手として決意を持つ仲間達との練習は、毎日が刺激的だった。当時チームの親会社である産業廃棄物処理の仕事と並行しながらプレーする事は、並大抵の労力ではなかった。しかし、熱意は日々高まり続け、何よりも自身の成長を実感出来ることが幸せだった。

 「ルネス学園に行ってサッカーの楽しさを取り戻し、MIOびわこ草津ではピリピリした空気の中でサッカーをすることが出来ていた。仕事にも充実感をもって臨むことが出来ていましたね」と当時を振り返る。

 仕事とサッカーと充実した日々送っている中、突然として大きな“転機”が訪れる。サガン鳥栖時代に蒔かれていた“種”が咲こうとし始めていたのだ。


ユン・ジョンファン監督からの一本の電話


 『監督通訳としてサガン鳥栖に戻ってきてくれないか?』

 サガン鳥栖時代に"人"として多くを学んだ、ユン・ジョンファン監督(以下、ユン監督)からの一本の電話が、金正訓氏のロードマップを急速に進めることとなる。

 当時の心境について「もしもユンさんから話が来たら、その時は自分がサッカーを辞める時だと勝手に決めていたんですよ。僕はその頃から指導者の道も視野に入れていて、その一方でユンさんは現役を引退してからも、サガン鳥栖のアドバイザーやコーチになったりと、いずれはサガン鳥栖の監督になる人だと勝手に感じていましたから。その時にユンさんは必ず僕を誘うだろうと。そのタイミングが予想よりも早かったということは誤算でしたけど。(笑)本当に有り難いチャンスを頂いたと思っていますし、すぐに決断することが出来ました」と話す。

 サッカーの楽しさを思い出し、選手として再び上を目指そうという最中、監督通訳としてサガン鳥栖に復帰するという決断を下す。

 「監督通訳」という職に魅力を感じ、皆を「驚かせたい」という野心を持ちながら、サッカー選手としてのキャリアに終止符を打ち、ユン監督との怒涛の日々をスタートさせる。


広い視野を持ち二手先、三手先を予測する


 ユン監督がサガン鳥栖にもたらした功績は、サッカーファンや関係者なら誰もが知るところだろう。

 2011年にサガン鳥栖の監督に就任し、指揮初年度からクラブ史上最高となる『J2リーグ2位』という結果を収め、リーグ戦の終盤では16試合連続無敗を記録。初の『J1昇格』へとチームを導いた。

 J1初挑戦となった2012年には『J1リーグ5位』を記録し、歴代の昇格組として最高順位を収める。その後はJ1に定着し、サガン鳥栖の新たなクラブイメージを創り上げた。

 そして、この功績を影で支え続けた金正訓氏は、「本間に凄い人やなというのは隣で見ていて常に思っていました」と尊敬の念を込めて話す。

 ユン監督は、選手に対して常にプロフェッショナルな立ち振舞いを求めるが、そのアプローチはチームスタッフ及び監督通訳である金正訓氏に対しても同様だった。

 「人間は歩いている時に無意識に下を向いたりするじゃないですか。でもユンさんは違うんですよ。何気ないことだけど、歩いていても常に遠くを見ろ。常に周りを見ろと言われていましたね。というのも、それは日常的な話だけではなくて、サッカーにおいても通ずる話です。あの選手はどういう表情をしているのか、あの選手はどういう行動を取っているのかを常に観察する。そのなかで得たヒントを、指導やマネジメントに活かすんだと。選手も同じ。二手先、三手先を予測して多くの選択肢を持って実行出来る選手が良い選手。ユンさんからはピッチ内やピッチ外、人生の事まで色んな事を教わったし、僕自身もユンさんとは、ある意味相性が良くて共感できる部分が多かったと思っています」

 ユン監督と過ごした5年間には多くの学びがあり、長い年月を共有したからこその心境もあった。

 しかし金正訓氏自身は、これからのビジョンとして、通訳のまま駆け上がっていくという思いよりも、『監督になるためには』という最終目標に対する逆算思考でキャリアを歩んでいたと言う。「ユンさんと共にした5年間のなかで多くの成果があったし、ユンさんとの相性も良かったと思います。ユンさんからチャンスを頂いて、毎日が充実していました。ただ、僕の未来像というのはずっと通訳をやっていきたいというものではなかったですし、いつ自分はユンさんから離れるんだという葛藤もありました。特に最後の1,2年は日々ユンさんのサポートに邁進するなかで、悩みもしましたね」

 金正訓氏は、監督通訳時代からクラブの理解を得て、B級ライセンスを取得するなど指導者としての準備を進めていた。そして、2014年ユン監督のサガン鳥栖退任が、自身を次のステップへと押し進める一つのタイミングとなった。

 後編では、トップチームコーチや強化部で得た経験、カマタマーレ讃岐での現在やS級ライセンスに挑戦するうえでの抱負を語って頂こうと思う。