【近代サッカーからロマンは消えたのか?】アスレティックビルバオとアイスランドと在日コリアンから見る。


アスレティック・ビルバオが貫く“バスク属地主義”とは


 「バスク純血主義」のニュアンスには少しばかりの誤差があった。

 バスク純血主義と表現すれば、一切の混血を許さないバスクの血筋のみを持った選手でチームを構成するという哲学になってしまうが、クラブを取り巻く環境にも若干の変化が生じ始めているのが現実である。

 つまり、「バスクで生まれた」「バスクで育った」という文化的条件が満たされると、アスレティックビルバオに入団することが出来るという新たな“法律”が出来つつあるのだ。よって、ここ数年では「バスク純血主義」というパワーワードは姿をくらませ、「バスク属地主義」といったクラブポリシーが姿を表し始めている。


 アスレティックビルバオは、スペインとフランスをまたぐピネレー山脈に位置する「バスク」を本拠地としている。そして、バスクで生き抜いてきたバスク民族は、固有の文化や言語を保有し今も守り続けている一方で、こよなくサッカーとアスレティックビルバオを愛している。
 アスレティックビルバオは、グローバル化とマネーゲーム化が推し測られるなか、「バスク属地主義」という固有のポリシーを貫き通し、“記憶の中にある良きもの”を見失わず、自らの道を信じぬいた“ロマン”あるクラブなのだ。

 前回書かせて頂いたアスレティックビルバオの“バスク純血主義”から見る「在日コリアンサッカーの未来」では、多大な制限下のなかでも強さを誇り続けている背景を考察したが、その「原石を活かす」という点で、また注目すべき代表チームがある。

 サッカー、アイスランド代表だ。


ワールドカップ史上最も人口の少ない代表チーム「アイスランド代表」

 「UEFA EURO2016 フランス大会」で見せた、“少数精鋭軍団”アイスランド代表の「バイキングクラップ」を覚えているだろうか。

 彼らは試合に勝利した後、アイスランド代表のファンサポーターと共に、両手を大きく構え、雄叫びを上げながら拍手を鳴り響かせる「バイキングクラップ」という儀式を行った。その様子は瞬く間にSNSやTVを通してピックアップされた。

   
 アイスランドの人口は約36万人。その限られた人材のなかで、イングランド代表を破っては「欧州ベスト16」という結果を叩き出し、「FIFAロシアワールドカップ2018」では、“ワールドカップ史上最も人口の少ない代表チーム”として、話題を呼んだ。
 アイスランド代表は何故、人口約36万人という限られた人材の中で、ここまでの偉業を成し遂げることができたのだろうか。

 

 その一つは指導者の育成だ。アイスランドサッカー協会の指揮のもと、質の高い指導者を育成し、その育成された指導者たちをアイスランドの全国各地に張り巡らせた。そうすることによって、決して強いとはいえない地方クラブに眠る才能や原石たちを取りこぼさずに済んだのだ。
   
 また、人口約36万人という“不利”がアイスランド代表にとっての“強み”と化した。つまりは、その少なさがお互いのスムーズな連携を生み出し、サッカー協会が掲げる理念やビジョンが他の国の浸透度と比べると、圧倒的に高かったのだ。

 例えば、大企業の代表が一人一人の社員を緻密にマネジメントすることは極めて難しいが、社員10人にも満たないベンチャー企業であれば、代表自らが一人一人と対話し社員のコミットメントを高めることが出来る。

 このように、アイスランドサッカー協会も各地域の指導者やサッカークラブと連携を図り、情報交換を緻密に行うことによって、理念や方向性のすり合わせを行うことが出来た。

 「すくい上げられる人材は全てすくい上げる」という戦略が現在のアイスランド代表の立ち位置を導いているのだろう。

 「徹底された価値観さえ持っていれば強豪国をも倒すことが出来る」という自信が、国民のアイデンティティとなった。そのアイデンティティこそが、今のサッカー界に欠けつつある“ロマン”ではないだろうか。   

 

 そして、我々の身近にもアイスランド代表のように「すくい上げられる人材は全てすくい上げる」という理念で闘う集団がいる。

バスクとアイスランドと在日コリアンサッカー
 

 日本には幼稚園から大学まで在日コリアンが母国の歴史や文化を学ぶための朝鮮学校が存在している。そのなかでもサッカーが占める期待値は非常に大きく、自分達のアイデンティティを表現できる一つのカルチャーとしてサッカーが育まれてきた。

 東京都小平にある朝鮮大学校サッカー部からは、今もJリーグで活躍する鄭大世選手(チョン・テセ/町田ゼルビアFC)や朴一圭選手(パク・イルギュ/サガン鳥栖)など、数多くのプロサッカー選手が輩出されている。

 日本のサッカー人口よりも圧倒的に少なく、環境やシステムの完成度も日本のサッカーには及ばない。しかし、在日コリアンのサッカー少年は先輩たちと同様にプロサッカー選手になることを夢抱き、プロ予備軍とされる人材が今も輩出され続けている。


 その要因は、アスレティックビルバオの「バスク属地主義」同様に、在日コリアンサッカーにも「在日コリアンのみ」という制限があるなかで、自分たちの歴史やアイデンティティを実感し、どうすれば自分達の意志を表現出来るのかを考えたからではないだろうか。
 Jリーグのなかで活躍してきた在日コリアンフットボーラーを見渡してみると、「強くて、速くて、闘える」選手がそのほとんどを占めており、アスレティックビルバオのように足りていないという事実を受け止め、その現実に腹を決めていた。

 つまりは“足りないこと”を武器にしたのだ。


 そしてもう一つはそのコミュニティのコンパクトさだ。アイスランド代表は人口約36万人という条件を味方に付け、風通しの良い連携を作った。そうすることによって進むべき道を示し、そこに対しての方法論もすり合わすことが出来た。
 日本社会における在日コリアンという存在はマイノリティであるが、その稀有なシチュエーションを味方に付けたのだ。日本サッカーの場合、育成年代の頃から生き残りをかけた「追い越せ追い抜け」の勝負があると思われるが、在日コリアンサッカーはそもそもの母数が少ないため、競争させる訳にはいかない。競争させ、脱落者を招くことは避けたいのだ。
 その環境下で、隣に広がっている“青い芝生”を覗くことなく、トップに躍り出た“お山の大将”は、隣の青い芝生を知らないからこそ、個性を尖らせたまま大人へと成長し勝負し続けることが出来てしまう。だから、日本の育成システムのもとでは生まれないような“いびつ”な選手が誕生し、Jリーグの需要へと結びついてきたのだ。


いまスポーツが果たすべき役割とは

 そもそも、社会がアスリートを輩出することによって享受出来るメリットとはどのようなことだろうか。

 スポーツとは社会の枠組みにおいての一部の文化に過ぎず、その他にも「衣食住」など最優先すべき事柄はたくさんある。また、テクノロジーの急速な発展により、情報は民主化され、人々を楽しませるエンターテイメントも多様性を帯び始めきた。
 それなのに何故、人々は今もスポーツに魅力を感じ続けるのだろうか。
  
 その一つは、アスリートの存在自体が人々の持つ「コンプレックスのハブ」になっているからではないだろうか。

 社会とは、まったく同じ境遇や民族の人だけで構成されている訳ではない。多種多様な人々が交わり生活を共にしている。そして、人々はその互いの違いから生じる「コンプレックス」を抱え、社会との対峙のなかで自分はどのポジションにいるのか、何に依って立っているのかを考える。その過程で生まれた“ポシジョン取り”こそが「アイデンティティ」なのだ。

   
 つまり、社会の人々はアスリートを応援することによって、自身とアスリートの間にある「共通項」や「コンプレックス」を見つけ出し、アスリートの存在そのものを自身の「アイデンティティの一部」として組み込んでいるのではないだろうか。アスリートとの結びつきを通して自身のアイデンティティを確認しているのだ。
   

 アスレティックビルバオのバスク人は、クラブ哲学に共感することによって自らの民族に誇りを感じた。

 アイスランド国民は、代表チームの躍進を胸に「我々は自分たち以外の何者にもなれない」とコンプレックスを肯定することでアイデンティティを確立させた。

 在日コリアンは、サッカーという“国技”をもって「反骨心」や「矜持」を育み、マイノリティである自身たちを守り抜いてきた。

 

 情報が錯乱するいま。スポーツが持つ意味が問われ始めている。

 隣の芝生が青く見えてしまう気持ちもよく分かるが、守り通してきた“良きもの”を決して見失ってはいけない。そしてスポーツには、その“記憶の中にある良きもの”を呼び起こすだけの力があるのではないだろうか。