【“朝鮮学校唯一の日本人教員”はなぜ 異なるルーツの教育現場に18年間も立ち続けたのか?】元北海道朝高サッカー部監督 藤代 隆介氏インタビュー


 朝鮮学校唯一の日本人教員として民族教育の現場に立ち続けた藤代 隆介氏は、"怒涛の18年間"をこう振り返った。

   

 「ただひたすらに突っ走った18年間でした。徹底的に目の前の学生、目の前のウリハッキョ(朝鮮学校)と向き合う日々。目の前のこの子たちが社会で逞しく生きていく為にはどうすればいいのかと、模索しながら毎日を過ごし、気が付くと18年も経っていました」。

 いち教育者として、いちサッカー指導者として、在日同胞社会や日本社会に想いを寄せながら愚直に未来を切り開き続けた。時には反発も喰らい、時にはもどかしさを感じることもあった。しかし何故、自身のルーツとは異なる教育の場で、周囲を惹きつけるほどの熱量を持ち続けることが出来たのだろうか。

 そこにはどのようなアイデンティティがあったのだろうか。

現在、北海道サッカー協会と契約を結び「北海道サッカーFAコーチ」として活動する(日本サッカー協会S級ライセンス保持者)



 藤代氏が監督に就任し間もない頃。一人の選手が試合終了直後に泣いていた。「どうした?悔しいのか?」と、藤代氏。

 すると、思いもしない言葉が返ってきた。

   

 「国に帰れと言われました」。


 なぜこういうことが起きてしまうのか理解に苦しみ、動揺を隠せなかった。しかし、この出来事が藤代氏の心を更に動かすこととなる。


 「当時指導者としての力がなかった僕は彼らを守ることができなかった。自分が無力で悔しくて悔しくてたまらなかった。なぜサッカーを純粋に楽しみたい子供たちが、こんなにも辛い経験をしなくてはいけないのか。怒りの感情を覚えると共に、『決して社会に屈することのない人間を育もう』という決心が芽生えてきました」。


「これまでの人生、こんな人に出会ったことがない」。北海道同胞の熱意に押されて


ーー本日はよろしくお願い致します。まずはじめに、指導者を志したきっかけを教えてください。

 

藤代:「帝京高校を卒業した後にサッカーに携わっていきたいという思いがあって、サッカーやスポーツを体系的に学ぶことの出来るルネス学園に進学しました。ルネス学園を卒業後、同校に残り指導者としてキャリアを歩み始めたんですが、ルネス学園が指導者としてのスタートですね」

 

ーー当時はどのようなキャリアを計画していましたか?

 

藤代:「漠然としていましたが、指導者としてのステップアップを徐々に踏めていければいいなと、いくつかの選択肢を持ちながら毎日の指導にあたっていました」

 

ーーでは、北海道朝鮮初中高級学校サッカー部監督に就任されたのには、どのようなきっかけがあったのでしょうか。

 

藤代:「ある時に出会った北海道出身の在日コリアンの親友との出会いがきっかけです。彼からは本当に多くのことを学んだんですが、僕がそれまでに出会ってきた日本人とは違った感覚を持っていて。『僕は在日コリアンであり、こんな考えを持っている』と、自分のルーツや価値観を日本社会の中でも迷いなく主張できる人間でした。僕が知らないこともたくさん知っていましたし、同い年ながらにコイツはすげーなと。こんな奴には会ったことがないという衝撃があったんです。

そんな彼から、『北海道の朝鮮学校のサッカーを強化してくれないか?』と打診され、行ってみたいという気持ちが湧いてきました」

 

ーー迷いなどはなかったのでしょうか。

 

藤代:「帝京高校時代から東京朝高とは頻繁に練習試合をしていましたし、当時の帝京高校の監督も東京朝高には一目を置いていました。僕自身の中でも手強い印象があって、当時から在日コリアンという存在に興味を持っていたんです。

あとは就任する前に何度か北海道に足を運んで、僕のことを招いてくれた父母会の役員の方々や、校長先生にお会いして話をしたんですが、朝鮮学校や在日同胞社会への熱意がひしひしと伝わってきて。『誰かのために』といった犠牲精神を目の当たりにして、この人たちの熱意に応えられるかどうかは分からないけれど、やってみたいという気持ちが確信に変わりました」

 

ーー周囲からの反発もあったのでは。

 

藤代:「厳しい意見もたくさん受けましたよ。朝鮮学校の学生たちのなかでも『あの人は何者だ?』という雰囲気があったし、それこそ、就任当初に仲間が一緒に挨拶回りに行こうと各地に連れて行ってくれたのですが、『日本人に何ができるんだ』と言われてしまったこともあって、当時は僕も若かったので『呼ばれた側なのになんでそんなことを言われなきゃいけないんだ』と反発してしまうこともありましたね。ただ、しばらく経って考えてみると、そう言われてもおかしくはなかったし、僕は呼ばれた側として自身の仕事をもって評価や信頼を得るしかなかった。

そして何より、校長先生がその全てから守ってくれていたことが大きかったです。ネガティブな声が届かないように防波堤になってくれていましたし、仮に届いてしまったとしても『一切気にするな。自信を持ってやっていけ』と常に支えてくれました。本当に感謝しています」

サッカーは「人を一流にたらしめる」ひとつのツールに過ぎない

 

ーー藤代氏にとっての「サッカー」とは、どのような存在でしょうか。

 

藤代:「サッカーは『人を一流にたらしめるひとつのツール』だと考えています。教員時代、在日同胞社会や日本社会に貢献する為に何が出来るのかを常に考えていましたが、当時から持つ僕の答えとしては、『日本社会に出ても胸を張って在日コリアンであることを主張できる在日コリアンを育むこと』でした。たとえば、日本社会が持つ在日コリアンに対する印象は様々だと思いますが、その印象を覆したり変えたり出来るのは、一人一人の人格や振る舞いだと思っていますし、仮に在日コリアンに対し不当な意見や逆境が降りかかった時に『それは間違っている』と声をあげられる存在になってほしいんです。そういう素敵な人間を増やすことでしか社会は変えられないと思っていました。

そして、その素敵な人間に育むための一つのツールとしてサッカーがあり、サッカーというフィルターを通し何かを感じ、サッカーというフィルターを通し学生たちの成長を促すことが出来る。それが僕にとってのサッカーです。指導の対象が変わった今も、その価値観に変わりはありません。一流の人間でないと一流の選手には当然なれませんから」

 

ーー当時の朝鮮学校のサッカーについては、どのような印象を抱いていましたか?

 

藤代:「勝った時の盛り上がり方がとてつもない。やはり在日コリアンにとってのサッカーとは『血』そのものなんだと。サッカーが循環すれば在日同胞社会は活性化するし、サッカーが衰退してしまったら血の巡りが悪くなり、在日同胞社会もどこか勢いを失ってしまう。だからこそ、大きなやりがいを感じながら仕事をさせて頂きました。

また、指導者の水準が高く日本サッカーから一目を置かれるチームがたくさん存在していました。そういった環境でサッカーに携わることが出来たのは、僕自身の指導者人生の観点からも非常に貴重でしたし、年に一度行われる中央大会(朝鮮学校における全国体育大会)でも、全国の指導者の方々と交流できたことがとても有意義でした。

片や、当時の日本サッカーは日進月歩で発展し変化をもたらしており、その発展を横目に、ウリハッキョを取り巻くサッカーはこのままでいいのかと自問自答する日々でもありましたね。絶対数が違うので不利な状況であることは間違いないのですが、なんとか独自のものを作れないかと思っていました」

 

ーー朝鮮学校の選手人材に関してはどのような印象を抱いていましたか?

 

藤代:「北海道の話をすると、運動能力が低かった印象ですね。これに関しては色々な角度から考察をしていましたが、その一つの要因として登下校にあるのではないかと。つまり、北海道朝鮮学校に通う多くの学生が遠距離から学校に通っており、寄宿舎生活やバスでの登下校を行う結果、歩いたり自転車を漕いだりする機会が他の学校に比べて圧倒的に少ないんです。我々は日本サッカーに比べ絶対数が劣るなか、『少数精鋭』で挑まなくてはいけないのですが、これでは『精鋭』にすらなれないと、学校側ともたくさんの協議を重ねました。たとえば、バスで登校したとしてもその後にグラウンドを歩くような取り組みを施策したり、体育の授業でマット運動を増やしたり。それこそ、小・中の指導者たちとも年がら年中協議し、どうにかプラスに持っていこうと試行錯誤を繰り返しましたね」

“今”だからこそ、積極的な“外”との交流を

 

ーー少数精鋭で挑む為に『精鋭』を磨かなくてはいけないと。

 

藤代:「そうです。これは運動能力に限った話ではありません。たとえば、学生数の減少が止まらないなかでウリハッキョが力強く存続し、光を放ち続けられているのは、ウリハッキョ教員や地域同胞の尽力と保護者たちの理解があってこそです。今のウリハッキョの学生は同胞に守られながら育っている。ただ、守られているという事実を学生たちの成長という観点から捉えたとき、もっと広い視野が必要になってきます。というのは、学生たちは守られているが故に殻に閉じこもってしまう傾向が少なくないということです。これをどうにかしたいと感じていました」

 

ーー具体的にどういったことをやられたのですか?

 

藤代:「その一つとしては、日本の学生と徹底的に討論をさせる場を設けました。ウリハッキョの学生は周囲をリスペクトし過ぎる傾向があったので、もっと自信を持っていいんだよと。サッカーの試合であれば0−5で負けてしまう場合も多いけど、討論などの場合はウリハッキョの学生は慣れているし意見も持っている。あとは場数の問題で、自身を与えられるような機会をいかに提供してあげられるかは教員の責任でもあります。どんどん“外”と接触させて、対等な人間たちとバチバチ切磋琢磨させていく。こういうことが、ウリハッキョの学生にとっては大切なことだと認識していましたね」

 

ーーその他にも取り組まれたことはありましたか?

 

藤代:「この交流はひょんな事から発展していったんですが、ウリハッキョの学生数が少なくなり、残された子供たちの試合機会が失われてしまうなかでどうしようかと悩んでいた頃、たまたまとある通信制学校の先生と話す機会があって。その学校にもサッカー部があったんですが、話を聞くと、サッカーを本気でしたかったけれどサッカーの道からフェードアウトしてしまった学生が多数通っていたらしく、いわゆるヤンキー風の子が多くて練習試合もなかなか組めなかったらしいんですね。だったらうちにおいでよと。ふとした先生との会話のなかで、合同練習を定期的に行うようになりました」

 

ーーその取り組みからはどういった成果が表れましたか?

 

藤代:「最初にその子たちと会った時は髪の毛も茶髪で目つきや雰囲気も良くはなかった。大丈夫かなと思っていたけれど、一回二回と練習を重ねるごとに皆の表情が変わってきて、練習が終わった後も汗まみれになり凄く楽しそうにやっていた。そうして一緒に汗を流していくうちに、その子たちの口から『朝鮮学校とまた合同練習がしたい』と言ってくれるようになり、その取り組みが定期化されていったんです。

なぜ心を開いてくれたのかと考えた時に、やはり、その子たちもウリハッキョの学生同様に色眼鏡で見られること多かったと思うんですが、ウリハッキョの学生たち色眼鏡で見られる辛さを肌で実感しているからこそ、受け入れる対応を自然に出来たんですね。この暖かさがウリハッキョの良さですし、仮にこれがウリハッキョの学生でなければ続かなかっただろうなと思います。

こういった機会の積み重ねが彼らの成長を促してくれますし、この好循環が中級部のクラブチーム化であったり、様々な展開をもたらしてくれましたが、何よりも学生たちにとって良い影響をもたらすと判断したものは全てやろうと。『学生たちの為に』といった行動や想いが次から次へと好転的な状況をもたらしてくれると、今も感じています」

まずは自分が楽しみ「社会ってこんなに楽しんだよ」と“希望の種”を蒔く

 

ーー現在はどのような仕事をされているのですか?

 

藤代:「北海道サッカー協会と契約を結び、FAコーチをしています。内容としては、北海道に特化した指導者養成やトレセン活動。選手人材の強化育成や普及などを含め、幅広く仕事をさせてもらっています」

 

ーー指導する選手の対象が変わることで生じた変化はありましたか?

 

藤代:「選手はまったく変わらないですよ。日本の選手だろうがウリハッキョの選手だろうが本質は変わらない。伝える側である大人が本気で取り組み、本気で選手たちと向き合えば、その本気度や温度感は必ず選手たちに伝染するものです。だからこそ、ウリハッキョ教員をやっていた当時と価値観の根底は同じです。

ただ、やはり子供たちを取り巻く環境において、ウリハッキョは恵まれています。大人と子供、在日コリアンと日本人、学生と同胞など、境界を超えた交わりを行える機会がウリハッキョにはたくさんありますよね。見知らぬ同胞に話しかけられたり、隣のおばちゃんに怒られるとか、社会全体としての交わりがあって、そこにはルーツと暖かさがある。人工的に作り出せるものではないからこそ大事にしてほしいです」

 

ーー仕事における哲学も変わらないですか?

 

藤代:「学生や選手たちにとって良いと感じたものは実行に移してみるというスタンスは今も変わりません。なぜこのスタンスを続けているかと言うと、たとえ失敗したとしても責任を持ってトライしてるからこそ助けてくれる人が出てきてくれるし、面白いことをやり続けることで、アンテナを張っている人たちが協力してくれる。この連鎖が更に良い状態を作り出すんです。

ウリハッキョ教員時代、あまりにも色々な企画を持ちかけたり、勝手にサッカー部を連れて交流させたりして、後から『これはどういうこと?』と迷惑をかけてしまったこともありました。その順序や進め方に関しては社会人として守るべきルールがあって、当時の校長先生には迷惑をかけて申し訳ない気持ちでいっぱいでしたが、理念的な部分で共感して頂いていたので、突き進むことが出来ました。想いを行動に移すことが大事だということを学ぶことが出来ました」

 

ーー藤代氏自身は今、どのような目標を持ち毎日を過ごされていますか?

 

藤代:「もちろん目標設定は大事なんですが、それに固執しちゃうと目の前の仕事が疎かになったり、逃げ道を作ってしまうことにもなるから、とにかく今やるべきことに徹底的に向き合っています。北海道のサッカーを良くするために全力を尽くすのみです」

 

ーーありがとうございます。それでは最後にiuda読者の皆様に一言をお願いします。

 

藤代:「これから社会に出ていく子供たちに向けて“希望の種”を蒔いてほしいと思います。正しい歴史を学ぶことで在日コリアンとして生きる誇らしさを持って欲しいし、社会の楽しさを目前に大人になることを待ち望んでほしい。そのためには教育に携わる教員や指導者の方々が毎日を楽しく過ごす。楽しく授業を行う。楽しく指導する。それだけで充分ですし、むしろそれが最も大事だと思います。共に頑張って行きましょう!」

 

ーー貴重なお話ありがとうございました!今後のご活躍引き続き応援しております!