【夢のプロサッカー選手へ。在日コリアンKリーガーの誕生まで】大邱FC 尹鐘太選手


 2020年は世界的にも波乱の年となった。誰もが予想だにしなかったコロナウイルスの影響を受け、今まで通りの日常生活を送れないという前代未聞の危機に遭遇。我々が普段から熱狂するサッカーも日常生活の一部であるが、コロナウイルスはそのサッカーを観戦するどころか、プレーすることさえも許してくれなかった。

 人々はそれでもサッカーを求め続けた。この未曽有の危機の中でもサッカーのある生活を取り戻すべく、多くの関係者や医療従事者が尽力し、世界各国のプロサッカーリーグは独自の規制を設け、“新しいサッカー観戦形式”を展開し、リーグ再開を果たしたのだ。


 日本の近隣である韓国のプロサッカリーグ「Kリーグ」も比較的早い時期から打開策を講じ、リーグを再開させていた。Kリーグは先日11月1日に最終節を迎え、韓国サッカーのレジェンド『イ・ドングク選手( 全北現代 )の引退』がトピックを独占した。イ・ドングク選手は韓国のサッカーファンに引退を惜しまれるなか、勝利という結果をもって自身の現役生活に有終の美を飾ったのであった。


 現在Kリーグには多くの日本人または在日コリアンプレイヤーが所属している。全北現代の邦本宜裕(前慶南FC)、大邱FCの西翼(前スロバキア/ミハロフツェ)、江原FCの中里崇宏(前水戸ホーリーホック)、K2水原FCの安柄俊(前ロアッソ熊本)、石田雅俊(前安山グリナーズ)など。彼らは韓国サッカー界においても注目を集める存在だが、その多くが、既に他国や他チームでプロ経験をスタートさせたなかで、新天地を求め、韓国に渡って来た選手たちである。

 そんな中、少し変わった経緯でKリーグの舞台に足を踏み入れた選手がいる。皆さんはご存知だろうか、他国や他チームでプロを経験することなく、日本の大学からストレートでKリーグ「大邱FC」に入団した、尹鐘太(伊藤 鐘太)選手の存在を。

 彼は現在、徐々に頭角を表し始め、10/25に行われた浦項スティラーズ戦では見事初スタメンを飾り、続く11/1に行われた全北現代戦でも、先発ラインナップに抜擢。来期にはチーム内ポジションの確立が期待されている。 


“ドリブル”を磨き続けた少年時代

 在日コリアン三世として神戸で生まれ育った尹は、毎日のように従兄弟達とドリブル練習に明け暮れ、家に帰っても大好きなドリブルに磨きをかけていた生粋の“ドリブル小僧”であった。

 「個の力、個人技は必ず武器になる」と、親戚から叩き込まれ、どんなに怒られようとも個人技を発揮するプレースタイルを貫き続けた。尹はその後、大阪の“古豪”関西大学北陽高校に進学。持ち前のドリブルを武器に冬の選手権出場を目指したが、現実はそう甘くなく、その夢が叶うことはなかった。個人の力には確かなモノがあったが、チーム内ではスーパーサブのポジションを任されることが多かったのだ。


 高校卒業後には、中国地方大学リーグの強豪「環太平洋大学」に進学。2年時まではスタメンとして活躍を果たすが、ここでも自身の個の力とチームの戦術が噛み合わず、途中出場が増加。尹は思うような結果を残すことが出来ず、挫折と葛藤を繰り返した。
 プロサッカー選手になるという夢を諦め、就職活動を始めるという選択肢ももちろんあったが、それでも尹はプロの道だけを信じ続けた。
 「両親はこれまでも自分の夢と意見を第一に尊重し、背中を押し続けてくれた」と話すように、家族の精神的サポートが心強かった。尹はプロになるという夢に対しては1ミリもブレることなく、自身の武器をひたすらに磨き続け、そして、チャンスは訪れる…。


祖父母の愛した祖国で、プロサッカー選手に
 今年度はコロナウイルスの影響で中止となっしまったが、韓国では毎年「国民体育大会」というスポーツイベント行われおり、そこには在外国民の部として、全世界に住む「在外韓国人アスリート」も大会に出場している。
 大学生時に親戚の紹介で「韓国国体」に参加した尹は、祖父母の祖国に足を踏み入れ、感銘を受けた。「同じ境遇の在日同胞のチームメイトや、スタッフ関係者達と共に過ごした1週間は自分にとって特別な時間でしたし、祖国が近くに感じられた期間でした」と、尹の価値観に大きく影響を与えたのだ。
 幼い頃から尹の両親や祖父母は、「祖国に誇りを持ってほしい」と朝鮮半島の歴史や在日コリアンとしての“アイデンティティ”を惜しみなく伝えてくれていた。尹もまた、「大衆歌謡を聞いては涙を流す同胞達の姿を目にし、祖国を愛する同胞の想いがひしひしと伝わってきた」と、その実感を語る。
 そしてその想いは「韓国国体」によって加速し、尹は自身のアイデンティティを確立。「プロになるなら“韓国”で」と決心した。その強い決心と、少年時代から磨き続けた“ドリブル”が尹の未来を切り開くことになる。


 尹は「韓国国体」というアピールの場で、果敢に仕掛け続けた。「韓国でプロになる」という確固たる決心を胸に、自身の武器であるドリブルで相手に向かい続けた。そして、その強い決心からもたらす「力強さ」と、確かな「個人力」が「特別なモノ」を感じさせ、視察に訪れていた韓国スカウトの目に留まったのだ。そうして尹は大学在籍中にK1リーグでの練習参加の権利をもぎ取り、大邱FCに入団した。
    
 自身のプレースタイルを信じ続けた尹の「貫徹力」と、両親や祖父母が伝え続けた「アイデンティティ」が形となり実を結ぶことによって、実現された夢だ。


見守ってくれてる家族、亡くなった祖母を思いピッチへ    

 2020年10月25日、大邱FCvs浦項スティラーズ戦。尹は遂にスタメンとしてピッチに立った。その時ばかりは、家族に対する感情が込み上がって来たと話す。

 「まさか自分がK1の舞台でスタメンで入場するなんて想像もしていませんでしたし、緊張して、頭が真っ白になりそうになりました。でも、いつも自分の活躍を泣きながら応援してくれている家族、親戚達。そして三年前に亡くなったおばあちゃんが、天国から祖国のピッチに立つ姿を見守ってくれている気がしたんです。

 今の自分があるのは、家族のおかげです。感謝してもしきれないほどの力をいつも貰っています。まだまだスタートラインに立ったばかりですが、今まで支えてくれた家族達の顔を浮かべながら頑張りたいです」


 決して順風満帆ではなかった学生時代。挫折をし、挫けそうになる時もあった。それでもサッカーが好きで絶対にプロになりたかった。その気持ちを持ち続けたからこそ、今がある。
 「努力を重ねて、ブレることなく絶対プロになるんだと気持ちでボールを蹴り続けていると、不思議と何処かでチャンスは訪れるんですよね。自分自身もそうして練習参加の話を掴み取り、プロというスタートラインに立つことができました。いま、プロを目指している少年少女達にも『諦めるな』とエールを送りたいです」
    
 異色の経歴で、韓国に渡った尹。まだまだこれから名を馳せてゆく選手の一人だが、尹のように、Kリーグにストレート入団する選手も増えていくのではないだろうか。
 古くから切っては切り離せないライバルだった日本と韓国。これからもこの両国がアジアサッカーを牽引し、尹のような存在がこの両国の橋渡し役として、存在をアピールしてくれることを強く願う。
 神戸で生まれ育った生粋の“ドリブル小僧”の夢はまだまだ続く。