「国を背負うということは、光栄ですし誰もが出来る経験ではない」
現在J2リーグで戦う、FC琉球に所属する李 栄直選手(リ・ヨンジッ)のプロサッカーキャリアは、朝鮮民主主義人民共和国代表(以下:朝鮮代表)と共に歩んできたといっても過言ではない。
李選手は2013年に徳島ヴォルティスに入団し、その翌年の2014年には「U-23朝鮮代表」から初招集を受ける。2014年に行われるアジア競技大会に参加するための事前合宿に参加した李選手は、「サッカー選手として爪痕を残す為に必死だった」と、自身のある力を全てを尽くした。
同じ朝鮮民族ではあるが、日本で生まれ育ち、日本の文化をも知る在日コリアンが、朝鮮代表という場で自身の位置を確立させることは容易いことではない。李選手は私生活からチームメイトと打ち解けることを心掛け、プレー面では、日本でオーガナイズされた「ボールを大事にする」というエッセンスを代表に加え入れた。そのプレースタイルは監督や選手たちに大きな影響を与え、本大会であるアジア競技大会ではチームの主軸として全試合に出場。朝鮮代表の『アジア準優勝』に大きく貢献した。
人生に何度か訪れるチャンスを李選手は掴んでみせた。自身のプロサッカーキャリアを好転させるべく、掴むべき好機を見事に捕えたのだ。
李選手はプロ生活をスタートさせた2013年から現在まで、朝鮮代表でのキャップ数を含め、通算「195試合19得点」を挙げている。
これは誰もが達成できる数字ではない。プロサッカー選手という激しい競争社会のなかで、ここまでの数字を残す為には「瞬間的な活躍」だけではなく、それを継続させる為の“意識”が必要なのだ。
追い込まれる中「アジア競技大会」に挑んだ徳島ヴォルティス時代
ーー李選手は大阪商業大学を卒業後、2013年に徳島ヴォルティスに入団されました。今振り返ってみて、プロ生活をスタートさせた徳島ヴォルティスでの2年間はどのような期間でしたか?
李:「プロサッカー選手としての全てを教えてくれたクラブが徳島ヴォルティスでした。僕が徳島にいた時は、J1で試合に出てた選手達もJ2に多くやってきたタイミングでもあり、経験豊富な選手達の姿を近くで見ることが出来ました。多くの選手達が、必ずJ1に戻って活躍するというハングリー精神を持っていて、練習に臨む姿勢であったり、練習前の行動から練習後の自己管理まで、プロとしてのあるべき姿を見ることが出来ました。僕自身は試合にあまり絡むことが出来なかったですけど、この徳島での2年間が無ければ今の自分は形成されていないですし、今でも特別なクラブです」
李:「当時は結構びっくりしましたし、不安な気持ちでいっぱいでした。J1で思うような結果も残せていなくて、2014年はクラブとの契約も切れる年だったので、一日一日結果を残し、爪痕を残さなければプロサッカー選手として生き残っていけないと追い込まれていました。そんな中、有り難いことに代表からの招集を頂いて、クラブからも『試合に出る為の合宿なのであれば全力でアピールしてこい』と、アジア競技大会前に行われた1ヶ月の事前合宿にも参加することができました。とにかく追い込まれた状況での大会だったということを覚えています」
ーーそのアジア競技大会では全6試合に出場し、主軸選手としてチームの『準優勝』に大きく貢献しました。一つのチャンスを掴んだ印象です。
李:「そうですね。特に決勝戦での影響が大きくて、大会後複数のチームからオファーを頂きましたし、その中には海外チームからのオファーもありました。ただ、当時は日本でもまだ結果を残せていなかったので、最も熱心に誘って頂いていたV・ファーレン長崎に行くことを決めました」
ーーV・ファーレン長崎では2シーズンをプレーし、「49試合5得点」を記録しています。いま振り返ってみて、長崎でのプロサッカー生活はどのようなものでしたか?
李:「Jリーグは全国各地で開催しているので、ホームとアウェイの両方があり、そのなかでルーティンも定まってきますし、長崎は地方だったので朝早くから練習をこなして移動したり、試合前日の夜遅くに現地に到着することもありました。そういった中でコンディションケアの方法だったり、ホーム開催のナイターゲームに臨むうえで、どのような時間の過ごし方をするのかを常に考えていました。何気ないことですけど、こういった積み重ねや生活に臨む姿勢が重要ですし、その大切さを試合に出ることによって改めて体感することが出来ました。これらの重要性を長崎での2年間で掴んだ印象です」
その後李選手は、「チームを再生させる為に力を貸してほしい」という当時J2で残留争いをしていたカマタマーレ讃岐のミッションに挑む。2017年にカマタマーレ讃岐へと活躍の場を移すこととなった李選手は1シーズンで「24試合2得点」を記録した。
しかしそこには、あらゆる要素が絡んだ葛藤があり、クラブと代表活動の両立の苦難にも直面していた姿があった。
「Jリーグでの顔」と「朝鮮代表での顔」
李:「多少覚悟はしていたものの、環境は良いとは言えなかったですし、そのなかで試合に向かうモチベーションの管理や試合に勝てない難しさを感じました。こうして一年間悩み続ける中、その頃から代表活動も多くなって、クラブと代表とでの両立の過酷さというか、難しさを痛感しました。ただ、だからこそもっとやりたいというハングリーな気持ちが生まれてきましたし、結果的には納得のいくものではなかったですけど、この一年間は決して無駄になっていません。まだまだ上でやりたいという気持ちを駆り立ててくれ、今思えばあの一年があって良かったなと思えます」
李:「一つはコンディション面での難しさです。移動に関しては平壌へ行くのにも一日は要しますし、他のアジア諸国と対戦するときでも10時間以上のフライトを経ないといけません。長時間移動していたので、体もきつい。そして、試合に向けた準備期間も少なく、合流したらすぐに試合を行い、試合が終わったら、またすぐに日本に戻ってJリーグに合流すると。この一連の流れが想像以上に過酷でした。あとは、サッカースタイルの違いにも苦戦しましたね」
ーーなるほど。サッカースタイルの違いは、どういった部分で感じましたか?
李:「一番はテンポです。Jリーグはここ2,3年前からボールを保持するスタイルのチームが増えてきて、僕自身もそういったサッカーをしてきました。一方で、代表に行けば如何に『ゴールまで最短距離で辿り着けるのか』という“前”に対する意識が強いサッカーをしています。また、体を張るということが重要視されるので、そういった部分での適応の難しさがありました」
ーー「ボールを繋ぐ」ことを日本で培ってきた李選手が代表チームに入った時、その役割は明確だったのではないでしょうか。
李選手はその後、当時東京ヴェルディの監督であったミゲル・アンヘル・ロティーナ監督(現清水エスパルス監督)から「お前が次の補強の一番手だ。東京ヴェルディに必ずフィットする」と、直々にオファーを受け、2018年にカマタマーレ讃岐から東京ヴェルディへと活躍の場を移した。
結果的に、東京ヴェルディでは2シーズンを過ごし「54試合出場10得点」を記録。「ヴェルディでの2年間がこれまでのサッカー人生で最もサッカーを学び、学ぼうとさせてくれた」と当時の心境を振り返っていた。
東京ヴェルディで垣間見た新境地
李:「これまでは自分の能力や本能でプレーしていた側面があったなかで、ヴェルディではサッカーをより本質的に学べました。戦術や一人一人の連動性についてであったり、守備における考え方など、常に新しいことを学んでいましたし、この2年間は本当に楽しかったです」
李:「リーグが開幕して10試合くらい負けなしの状態が続き、監督から『出したいけどチームとして結果が出ているから新加入選手は出しづらい状況にある。少し我慢してくれ』と言われていました。その中で少しずつチーム状況が変わり、それでも後ろのDF陣は変えたくないという意向もあって『FWで出てみないか』と。というのも、ロティーナさんが自分の練習を見ていて『そのプレースタイルや特徴は前線でも必ず活きる』という分析をしてくれていて、僕は試合に出たかったし、やるしかないと思っていたので『やります』と答えました。それが上手くハマってくれましたね」
ーーロティーナ監督ならではの分析があったんですね。李選手はその後2019年をもって東京ヴェルディを退団する事となりますが、クラブ公式コメントでは「本当に濃い2年間だった」という言葉を残しています。
李:「ヴェルディではこれまでに自分が知らなかったサッカー観を与えてくれましたし、もっとサッカーを学びたいという気持ちを与えてくれました。あと、ヴェルディは『ファミリー』を感じさせてくれるクラブで、チームや会社を含めて全員がそういったことを一番体現できているクラブだと思っています。一度でも関わったら、全員がヴェルディファミリーなんです。僕にとってもそんなヴェルディは居心地が良かったですし、愛しているクラブで、だからこそ自然とあのようなコメントが出てきたんだと思います」
プロサッカー選手という"荒野"を生き抜く術とは
李:「そんなに活躍はしていません。(笑) 偉大な先輩達に比べると全然活躍出来ていないです。でも、敢えてそのような要素を挙げるとするなら、『人に恵まれていた』という部分ですね。自分にとっての大事な局面で、その時に自分に必要な事を示唆してくれる人達と出会えました。とはいっても、その人達から直接的に何か言われる訳では無く、先輩達の姿から自分が何を吸収するのか。もっと言うと吸収しようとする姿勢があるのか。そのアンテナを張っていたからこそ、自分の足りない物を先輩達から盗むこと出来、今の自分があるのだと考えています」
李:「国を背負うということは光栄なことですし、誰もが出来る経験ではありません。全国の在日の代表という気持ちでも国家代表に臨んでいますが、代表のチームメイト達とは少しの文化の違いやサッカー観の違いもあり、難しい時期もありました。ただ、やり続ける過程で少しずつ認めてもらい、先輩達が受け継いできた『国家代表』という道を続けられていることを光栄に思っています。そして、この道を途絶えさせてはいけない。下の世代が出てくるまではサッカーを辞められないなという気持ちです。梁勇基さん(リャン・ヨンギ/現サガン鳥栖所属)と代表で一緒になったとき、『ヨンジッが定着してくれたから自分も悔いなく譲ることができる』と言って頂いたんですが、自分もそう言えるときが来るといいなと考えています」
FC琉球はJ2リーグというサバイバルゲームを勝ち抜くことが出来るのだろうか。
“荒野”を生き抜いて来た、李選手のリーダーシップに注目だ。
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