【なぜ今を生きる指導者は「時代の変化」に戸惑いを隠せないのか?】新たな価値観を持つ“Z世代”との向き合い方


 前回記事では、限られた可能性の中からでも絶え間なくプロサッカー選手を輩出し続け、“在日コリアンサッカーの尊厳”を守り続けてきた仮設要因である「お山の大将論」に対し疑問を投げかけた。そのうえで、共通項の多い小国アイスランド代表を例に挙げ、「個性を尊重し育むことはもはや当たり前で、その個性をいかに組織にマッチさせるのかが重要だ」と説いた。
 しかし、それら成功体験は「前提条件」が揃っていてこその話だということを忘れてはならない。
   
 あくまでも、アスレティック・ビルバオやアイスランド代表で起きた成功体験は、その組織における歴史や背景の中に存在する要素たちが複雑に交差するなかで起きた“奇跡”であり、それら氷山の一角だけをピックアップし、今の時代や自らの組織にパズル式に当てはめたところで、まったくの的外れになってしまうということだ。
   
 と言うのも、我々は自らの発展を成すうえで「海外では…」と、他所の成功体験を模倣したり、自分たちの過去を振り返っては、「今の若者は…」と、これまでの価値観を語り継ごうとする。これらの試みは重要かつ欠かせない営みではあるが、それらの要素たちを今の時代に盲目的に当てはめたところで、同じような恩恵を受けられるかどうかはまた、不確かである。
 それ以前に重要なのは「他の成功体験や伝統をただコピーするだけでなく、今この場所(社会)に適合出来るようにアップデートしていくこと」であり、いま起きている変化がどのような未来をもたらすのかを想像することではないだろうか。
     
 そこで今回は、いちサッカー指導者として見えてくる「時代の変化」について考察しようと思う。
世界が問題視する「若者のサッカー離れ」
   
 今、世界のサッカー界で「若者のサッカー離れ」が問題視されている。
   
 2021年4月にレアルマドリード会長であるフロレンティーノ・ペレス氏が中心となり構想された「欧州スーパーリーグ」が発表からわずか48時間で頓挫した騒動は記憶に新しいが、「若者のサッカー離れ問題」が欧州スーパーリーグ創設の着想に至ったのは確かな事実だ。
 ペレス会長は構想発表時に「14歳から24歳までの若者たちがサッカーを退屈と感じ、試合を見なくなっている」と指摘し、その解決策の一つとして欧州スーパーリーグ創設を発表。それに対し多くの専門家が同じ危機感を抱いていると各メディアを通し示唆された。
   
 スペインのジャーナリストであり大学で情報化学を専攻するイケル・ヒメネス氏は、「今の時代に生きる人間の脳はネットワークの中で機能し、ネット上に羅列された数多くのコンテンツをスクロールしながら消費している。すなわち、一つのことに興味を抱くことが徐々に難しくなってきている」と話した。また、ネット上に存在するコンテンツのジャンルも、映画のような「前後の文脈に富んだ“むずかしい”コンテンツ」よりも、Tik TokやYou Tubeのような「簡潔的で手短な“分かりやすい”コンテンツ」が好まれるようになっており、サッカーにおいても90分間の試合を観戦することすら徐々に難しくなっている。
   
 それは「プレーすること」においても同様だ。
   
 一昔前までのサッカー少年少女にとっての「最大の娯楽」はサッカーであったが、今は様々な娯楽や“やるべきこと”が迫り来るなかで、サッカーに没頭出来るのは練習時間のみ。決して悪い傾向ではないが、「人生において楽しいことは必ずしもサッカーだけではない」という価値観が垣間見える。
   
 我々指導者はこのような時代の流れを理解したうえで、「今はそういう社会だから」と新たなアプローチを練る必要があるのだが、その風潮を頭では理解していても、激しい「時代の変わりよう」に戸惑いを隠せないという矛盾は、今を生きる指導者にとっての「共通の悩み」だろう。
 そしてその戸惑いの正体とは、より主体的にサッカーに没頭し、サッカーを通した成長に貪欲になってほしいと願ってしまう、サッカー指導者としての摂理からくるものに違いない。
   
「競争よりも共存」Z世代が持つ価値観とは
   
 フロレンティーノ・ペレス会長が指摘した14歳から24歳まで辺りをマーケティング業界では「Z世代」と呼ぶ。
 この世代の人々は生まれたときから当たり前のようにインターネットに慣れ親しむ「デジタルネイティブ世代」とも言われ、当然ではあるが、高度経済成長期やバブル期を知らず、40年にも渡って続く少子高齢化の影響を大きく受けた世代でもある。
 この世代に見受けられる特徴としては、ガツガツとした「競争」を好まない。少子高齢化の影響で学生数が減少していくなか、一人っ子も少なくなく、自らの存在を強くアピールする必要もなかった。また、度々続く自然災害や社会問題を目の当たりにすることで、「共感力」が養われた世代とも言えるだろう。
   
 一方、それ以前の高度経済成長期やバブル期などでは、大量のモノを生産し消費し続けるといった競争が繰り広げられていた。家族構成において大所帯も珍しくなく、自らの存在を労働力でアピールし、社会や組織において競争に身を投じ地位を上昇していくことで、豊かな生活を目指す価値観がベースにあった。そのなかで、市場が新たに誕生し続け、それら市場が大きくなると共に競争そのものが「正当化」され、競争を行う“大義名分”を作り出せていた。
 そしてその競争があったおかげで今、モノが充分に溢れる、ある種の“豊か”な暮らしを送ることが出来ている。
   
 しかし、「モノ豊かベースの価値観」が天井を叩いてしまった今、競争を敢えて繰り広げるような大義名分はあるのだろうか。
   
 今は競争よりも共感力を高め「皆が違って皆が良い」という価値観が主流だ。一列上に並べられた「レース的競争」ではなく、それぞれの個性や持ち味で勝負し、時に分け与え支え合う「共存」の時代。この「共存」の時代は、人々の「生き方」や「働き方」へ大きなシフトチェンジを求めている。
   
 現在ASローマの監督を務め、サッカー界の“スペシャル・ワン”とも称されるジョゼ・モウリーニョ氏はインタビュー番組でこう語っていた。
   
 「この10年間のサッカー界で最も変わったことは選手たちの考え方だ。特に『野心』『熱意』『プロ意識』『夢の実現』『キャリアを切り開く執念』に変化が生じている。昔は私が試合に挑む選手たちの士気を高める必要など無かったし、野心を植え付ける必要も無かったが、今の若手は考え方が違うので彼らに合わす必要がある」。
   
 ジョゼ・モウリーニョが話す「彼らに合わす必要がある」の、真意とは。
「余白」をデザインし「挑戦」を見守る
   
 先程も述べたようにZ世代はデジタルネイティブ世代とも呼ばれ、「生まれた時から」インターネットと生活を共にしている。勉強をするにしても、遊びをするにしても、スポーツをするにしても、インターネットを介した情報収集を行い、入り交じる情報の「取捨選択」を絶えず行ってきた。また、その情報の取捨選択は今の時代に求められる一つのスキルであるからこそ、「目の前の大人が教授してくれる情報」と「ネットを通し掴んだ情報」とを総合的に照らし合わせながら、自分のモノとするか否かを本能的に判断し、その作業を「無意識的」に繰り返している。
 すなわち、大人から受ける情報を今まで以上に「客観的」に捉えており、派手なトップダウンを好まない傾向にあるのだ。
   
 しかし、我々指導者に求められる役割が無くなった訳ではない。
 むしろ、「指導者の手腕」がより問われる時代へと突入した。
   
 「余白がデザインされた環境を与え続ける」。
  

 派手に強要する訳ではなく、ただ、選手たちが「無意識的」に挑戦出来るようなパッケージを用意する。そのパッケージをどう使うのかは選手たちに委ね、自主性を促す。なぜなら答えを持ち合わせているのは常に選手たちであり、選手たち自身の「挑戦」が、その答えを引き出す方法であるからだ。だからこそ、選手たちが充分に「挑戦」し、充分に「失敗」し、充分に「修正」出来るような「環境」を絶えず与え続けることが重要であり、いざ壁にぶつかった時、彼・彼女たちよりも「数年長く生きた者」として助言し、導く。この一連のマネジメントこそが、いま我々指導者に求められる役割であると考える。

   
 今を生きる次世代が未知なのかもしれないが、かつては誰しもが未知であった。
 そして、これまでの「人類の進化」が証明しているように、次世代たちは必ずや時代を超越する。
   
 このスタンスを持つことで初めて、「他所の成功体験を模倣」したり「これまでの伝統を守り継ぐ」といった営みが意味を成してくる。
   
 手段や形に固執するあまり、本当に守るべき「原点」を見落としてはいけないのだ。
   
 本当に目指したい「本質」は何なのか。本当に守りたい「原点」は何なのか。これらの課題に絶えず向き合ったその結果、最も適した手段や形は後発的に姿を現すだろう。
 そしてその姿こそが荒々しく変化する現代社会のなかで、自分たちの原点を継承していく最も本質的な努力に繋がるのではないだろうか。