「順風満帆じゃない時に辞めるのは簡単」ヴェロスクロノス都農 朴昇利選手【自身のサッカーキャリアを経て得た"考え方"とは】


2022シーズンよりヴェロスクロノス都農(2014年創設/九州サッカーリーグ)でプレーすることを発表した、朴 昇利選手(パク・スンリ/29歳)。

 大阪朝鮮高級学校、大阪産業大学を経て、ザスパクサツ群馬やアスルクラロ沼津など、数多くのクラブでプレーしてきた。自身のキャリアを「決して順風満帆ではない」と話す朴選手は、どういった想いで今、サッカーキャリアを歩んでいるのだろうか。

 大阪朝高サッカー部へ入部した当時から遡り、これまでの過程を伺いたい。
「冬の高校サッカー」で躍進する大阪朝高に憧れて
ーー朴選手は大阪産業大学サッカー部を卒業後、FC大阪を経てザスパクサツ群馬に入団しプロキャリアをスタートさせました。サッカーを始め、いつ頃からプロになることをイメージしたのでしょうか?

朴:「大学4年生の時にデンソーカップの関西選抜に選ばれたことがプロを意識し始めたきっかけでした。関西選抜に選ばれて、レベルの高い選手たちと共にプレーすることで、明確ではなかったですが、自分にも届くのではないかと思い始めました。GKというポジションを始めたのが遅かったので、まさか自分がそんな舞台に立てるとも思っていなかったです」

ーーいつ頃からGKを始めたのですか?

朴:「中学3年生の時です。僕が中1,2年生の頃に大阪朝高が冬の全国高校サッカー選手権大会に出場したんですが、僕のなかで特に注目した選手がGKのパク・カンミョン先輩でした。とにかく格好よかったんです。そこからは、大阪朝高のユニフォームを着て全国大会に出場したいという想いが芽生え、パクカンミョン先輩を目標に自らの意志でGKに転向し、大阪朝高サッカー部に進学しました」

ーー大阪朝高サッカー部ではどのような3年間を過ごしましたか?

朴:「大阪朝高のGK陣は本当にレベルが高くて出場機会を得られない期間が多く続きました。高校3年生の時も、2月の新人戦と春のインターハイには出場したものの、最後の選手権予選ではポジションを争っていた後輩のGKにポジションを取られてしまい、高校最後の大会に出場することが出来ませんでした。そういった意味でも、輝かしいこととは無縁の高校時代でしたし、プロになるなんて想像もしませんでしたね」

ーー周りのGKのレベルが高かったことによって、朴選手のGKとしての能力の向上を促してくれたという側面もあるのではないでしょうか。

朴:「そうですね。その競争の中でも試合に出たいという気持ちを強く持って練習と試合に臨んでいたので、それだけの成長はすることが出来たと思いますし、何よりも、ポジションを争っていた後輩のGKとは切磋琢磨できる良い関係性を築くことが出来ていたと思います。それこそ、高校最後の試合となった選手権予選 準決勝の時は、最終的に後輩のGKが出ることになったのですが、良い競争が出来ていたという感覚があったので、素直に応援することができました。この競争のおかげで成長することが出来たので、大学サッカーでのモチベーションへと繋ぐことができました」
中島GKコーチとの出会い
ーーそういった意味でも、大阪朝高サッカー部での経験がGKとしての多くのターニングポイントを与えてくれたのではないでしょうか。
 
朴:「そうですね。当時大阪朝高サッカー部GKコーチであった中島さんとの出会いが、僕のGK人生のなかで最も大きなターニングポイントでした。中学3年生からGKを始めて初心者に近い状態で大阪朝高に入りましたが、いま振り返ってみても、それまでに無かったような価値観や指導を受けることが出来ていたと思います。本当に教えるのが理論的で分かりやすかったです。
当時の大阪朝高で言うと、とにかく気持ちを前面に押し出してフィジカルや闘志の強さで相手を圧倒することが強みでしたが、中島さんはそのなかで際立って理論的な考え方を持つ方でした。とにかく根拠を重視し、こだわりが強く、その中に柔軟性があって、指導を受ける僕たちからすると刺激的だったので、どんどん吸収が促される。自分のGKとしての基礎と今のGK人生の根本を作ってくれた人は中島さんだと言っても過言ではないです。今も中島さんに教わったことをベースに考えながら、修正や改善を繰り返しています」
 
ーーそこまで多大な影響を受けた中島さんの提唱する理論とは、どのようなものでしたか?
 
朴:「技術的な側面で言うと、動きと構えの動作を色々なアプローチを施しながら僕たちがイメージしやすいように伝えようとしてくれました。例えば、ベクトルの調整の仕方やブレーキの掛け方の指導の時は実際に自転車を出してきてその構造を説明し人の動きに適用させたり、図解的な説明がすごく分かりやすかったです。GKを始めばっかりで吸収することしか出来ない時期に中島さんに出会えたことは非常に大きかったし、中島さんに出会えていなければ、大学でサッカーは続けていなかったと思います」
GKに転向し3年弱で大学サッカーからオファー
ーーそのあと朴選手は大阪産業大学サッカー部に進学しますが、どのようなモチベーションで大学サッカー生活を過ごしましたか?
 
朴:「高校3年生に進級する前の2月に新人戦があり、その時に初めて公式戦に出場したんですが、準々決勝まで勝ち上がって行くなかで、無失点で守ることが出来ていて。そして、準々決勝の試合に大阪産業大学サッカー部のスカウトが試合を見にきていたんです。もちろん目当ては相手の注目選手だったんですが、僕のプレーに目を付けてくれて、すぐに声をかけてくれました。しかも、その大学は僕が中学の時に憧れていた大阪朝高のGKであったパクカンミョン先輩がプレーする大学でした。僕とはちょうど入れ替わりだったけど、そういった巡り合わせがあったので、すぐに決めることが出来ました」
 
ーーGKに転向し3年弱で関西学生サッカーリーグ1部のチームからオファーが届くことを想像出来ていましたか?
 
朴:「まったく想像できませんでした。むしろ、大学サッカーにスカウトが居ることすらも分からなかったくらいでしたから(笑)当時は何が起こるか分からないなと思っていました」
 
ーー大学サッカー部での4年間はどのように過ごされましたか?
 
朴:「その当時は天狗になってしまっていて。その結果、1回生の前期は試合に出れていなかったんですが、なんで試合に出られへんねんって普通に思っていたし、いま振り返ると傲慢だったなと思います」
 
ーーその後、どのようにその状況を挽回しましたか?
 
朴:「試合には1回生の後期から出れるようになったんですが、その当時に取り組んでいたことは、傲慢な気持ちはとりあえず捨てて『いつかチャンスは回ってくる』という気持ちを作って虎視眈々と準備することでした。GKは一人しか試合に出れないですし、GKだけ練習メニューも違う。メンタル的にも、フィールドの選手たちと構築の仕方が全く違うので、虎視眈々とチャンスを伺うことしか出来ないなと思っていました」
 
ーーそのスタンスは今も変わりはないですか?
 
朴:「基本的に変わりないです。GKは交代が少ないポジションだし、スタメン選手が怪我をするなど、ハプニングが無い限りチャンスはほとんど回ってきません。フィールドの選手たちは色々なポジションがあって、それをこなせれば、それだけの機会が回ってくる計算になりますが、GKはそうはいかない。色々と待つ時間が凄く長いですよね。ただ、そのチャンスが回って来た時にどれだけ自分のモチベーションを維持し、高いパフォーマンスを発揮することが出来るのかが大事だと思います。口ではこう言っていますが、実際にそうするためには高い精神力が求められるので簡単ではないです」

「苦しい時に辞めることは簡単」。順風満帆ではないからこそ…。
ーー朴選手は大阪産業大学を卒業後、FC大阪に入団し、ザスパクサツ群馬、アスルクラロ沼津、栃木FCと、サッカーキャリアを歩まれてきましたが、どのような心境でこれまでのキャリアを構築してきましたか?(※2022年シーズンはヴェロスクロノス都農でプレー)
 
朴:「まず、JFLでプレーしていた時は高校や大学時代みたいに突き抜けてやっていこうというモチベーションではありませんでした。悪い意味でその環境に慣れてしまいましたね。目標も漠然で曖昧なモチベーションだったことを覚えています。しかし、大学までの蓄積もあり試合にはずっと出場させてもらっていたので、充実はしていましたし、それなりの評価を頂いていたと思います。そこから、ザスパクサツ群馬に移籍することになって、思いがけない形でJリーガーになりました。Jリーガーになれるイメージを全く持っていませんでしたが、率直に嬉しかったです」
 
ーーFC大阪ではコンスタントに試合に出場していましたが、その一方で、ザスパクサツ群馬では出場機会に恵まれない日々が続きました。
 
朴:「そうですね。正直入団した当初はプロの環境に慣れず、ずっとフワフワしていました。試合に出たいという気持ちはあったけれど、そこまで強い気持ちを持てていた訳ではなく、なかには有名な選手も居ましたし、このような選手たちとプレー出来ていることが嬉しいというか、凄いなと思ってしまっている自分がいました。
その翌年も、あまり試合に出場することは出来ずに、その後にアスルクラロ沼津に移籍することになりました」
 
ーーアスルクラロ沼津には2年間在籍することになります。
 
朴: 「僕がプレーしてきたどのクラブも素晴らしかったですが、アスルクラロ沼津はより地域の方々と密接に交流するクラブだったので、愛され、応援されていることを実感しながらプレーすることが出来る素晴らしいクラブでした。アスルクラロでは、皆がサッカー以外にも仕事をしていて、僕も仕事をすることで社会と接することが出来ていましたし、その過程で地域との交流を深め、チームを知ってもらうきっかけにもなっていました。お店ではポスターや横断幕を掲げてくれたり、仕事仲間が試合を見にきてくれたり。僕自身もクラブとして地域に密着し活動していく経験は初めてだったので、サッカーだけではないという再確認を行うことが出来ました。より人と接する距離が近く、プロリーグではあったけれど、サポーターや地域の方々と同じ方向を向くことが出来た、すごく貴重な経験でしたね。
そういった意味でも、その後に移籍した栃木シティFCでは、最高の環境と最高の選手スタッフのもとプレーすることが出来ました」

ーー2021年度は栃木シティFCとしてJFL昇格を目指していたと思います。
 
朴:「そうですね。チームとしても良い関係性を作っていくなかで、良い雰囲気があったし、自分自身の年齢もそれなりにきているので、栃木シティで昇格したいという想いが凄い強かったです。だからこそ、去年に叶えられなかったのはすごく悔しかったですね」
 
ーー栃木シティFCでは控えGKとしての期間も長かったと思いますが、シーズン終盤に出場機会を掴みました。そこに至るまでどのようなことを意識されましたか?
 
朴:「ずっと試合に出れていなかったので何かを変えようと思い、練習が終わった後に振り返りの作業をノートに記しながら行ったり、今後の取り組むべき課題などを整理しながら、チャンスが来た時に最善のパフォーマンスを発揮することだけを意識しました。とにかく考えていることを全て言葉にして、やるべきことを明確にし、毎日最善を尽くす。それだけを意識しました。その結果、シーズン終盤には試合に出してもらえたので、その過程で自分が取り組んだことや考えていたことは間違っていなかったと立証することが出来ましたし、その過程を自信に繋げられたと思います」
 
ーーそのような意識で取り組めた要因はどこにありましたか?
 
朴:「これまで出会ってきた先輩たちの影響が大きいですね。ザスパクサツでもアスルクラロでも、というよりも、ほとんどの選手が苦労していると思いますが、それでもしぶとく続けられている選手っていうのは、自分が出てるからと言って浮き足立たなかったり、たとえ試合に出れていなかったとしても根気強く自分を律せられる選手が多い印象です。なので僕も我慢強く自分と向き合っていこうと思うことが出来ましたし、これからもそのスタンスは持ち続けていこうと思います。
特にザスパクサツに入団してからの5,6年は試合に出場できない苦しい状況が続き、順風満帆ではありませんでした。そういった時に辞めることはすごく簡単だし、そういった状況で自分をどれだけ鼓舞してやり続けられるのかが今後の成長に繋がってくると思いますので、常に最善を尽くし、出来ることを積み上げていきたいですね」
 
ーーありがとうございます。それでは最後にいま夢を追いかけるサッカー少年・少女たちにメッセージをお願い致します。
 
朴:「僕は幸せなことに、これまでのキャリアのなかで色々な方から影響を受けることが出来ました。ヨンハッヒョンニン(元朝鮮代表/安英学氏)や、ハンジェヒョンニン(元朝鮮代表/李漢宰氏)は僕みたいな存在に対しても試合結果を気にしてくれたり連絡をくれたりしてくださいます。その他にも一緒にプレーした選手たちも含め、素晴らしい方々に囲まれましたが、そのような素晴らしい選手たちや先輩たちほど、裏では人よりも何倍も頑張っているし、何倍も苦労しているということ。その部分を見なくてはいけない。プロの世界だから輝かしく見えることは当たり前だけど、これだけ苦労しないと輝かれへんでっていうことを感じてほしいですね。輝いている人ほど、人とは違うことをしているよって。もちろん自分自身にも言い聞かせながら、努力や地道な取り組みを怠らないことが大事だと伝えたいです」
 
ーーありがとうございます!新天地、ヴェロスクロノス都農でのご活躍を応援しております!