「挫折を経験したJリーグに再び挑戦したい」東京武蔵野ユナイテッドFC 髙 慶汰選手インタビュー


 東京武蔵野ユナイテッドFCでプレーする、髙 慶汰選手(コウキョンテ/26)が、6月27日に行われたヴィアティン三重戦で、『JFL通算100試合出場』の記録を達成した。
 如何なる状況下でも、チームの為にプレーする髙選手はMFやDFといった複数のポジションを器用にこなし、相手攻撃の芽を摘むしたたかなボール奪取能力で『チームの心臓』として貢献している。

 髙選手は、小・中時代を柏レイソルの下部組織で過ごし、中学1年生時からは『年代別韓国代表』にも選出され、国際舞台を通し、幅広い経験を積んできた。
 中学卒業後は全国屈指の強豪校である、福島県・尚志高校に入学。1年生時から主力として活躍し、プレミアリーグや高校選手権などでその名を轟かせた。また、3年生時にはキャプテンに任命され、チームを牽引。俗に言う"エリート街道"を歩んできた髙選手は、その活躍とポテンシャルを見込まれ、高校卒業と同時にJ3長野パルセイロとの契約を結んだ。

 しかし、そこから前途多難なキャリアを歩むことになる。髙選手は長野パルセイロ入団後、グルージャ盛岡へのレンタル移籍などを経るが、プロの舞台ではほとんどの出場機会を得られなかったのだ。

 高卒でプロの世界に足を踏み入れることは一見華やかに見えるが、並みならぬ決意と覚悟が必要になってくる。18歳だった髙選手は当時、どのような展望でプロ入りを決意したのだろうか。
 また、そのような苦難を経た髙選手は、『東京武蔵野ユナイテッドFC』の地で、どのようにして自身の価値観を再構築し、これまでに培ってきた自信を取り戻したのだろうか。

 髙選手が歩んできたサッカー人生と、これからの展望について伺いたいーー。
“生きるべき道”を模索した柏レイソル時代
 JFL通算100試合出場を達成した髙選手。この記録達成を可能にさせた最大の要因は、ポリバレントな役割を遂行するインテリジェンスと、相手攻撃の芽を摘むしたたかな守備能力だ。
 そして、その強みの原点となったのが柏レイソルでの、一つの挫折だった。
   
 「レイソルには技術的に優れた選手や足の速い選手。個性豊かな選手がたくさん揃っていました。それに比べて僕は、技術も無かったし、ドリブルも出来なかった。ましてや足も速くない。レイソルに入ってから、自分の"生きるべき道"はどこなのかと考えるようになりました」
    
 柏レイソルに入団するまでは、自身の思うがままにプレーすれば良かったが、柏レイソルは伝統あるJクラブであり、プロを目指す強者たちが集う場所でもある。プロを目指すサッカー少年にとって、この激しい競争を勝ち抜かない限り、夢であるプロの舞台に足を踏み入れることは出来ない。
 髙選手はこの競争にどう打ち勝とうとしたのだろうか。
    
 「周りにいる選手たちと同じ道を選んでいたら勝てない。だったらば、そのような選手たちの攻撃を食い止め、その選手たちからボールを奪いきれるような選手になろう。そうすれば、自分ならではの存在意義を作り出すことが出来る。そう思い、ボールを奪う能力に磨きをかけようと思いました」
    
 髙選手は他の選手たちと同じレールに乗った競争を選ばず、周囲との差別化を図ることによって、自分ならではの価値を見出そうとした。「ボールを奪う部分は割と得意だったので」と話す髙選手だが、小学生ながらに周囲を分析し、自身の未来を見据えたうえで戦略を練っていたのだ。
  
 「僕たちの年は谷間世代と言われていて。上の年代も下の年代も強く、メンバーも豊富に揃っていました。その中からプロになる為には、違いを生み出さなくてはいけません。今の自分には何が出来て、今の監督はどういったプレーを求めていて、それらを踏まえて自分はどんな価値を提供出来るのか常に考えていました」。
  
 その緻密な努力が徐々に実を結ぶようになってくる。
 自身の『生きていくべき道』として磨きをかけたボール奪取能力や鋭い戦術眼に目を付けた『韓国代表』から、代表テストのオファーを受けたのだ。
 そして、2008年。日本で行われた日韓親善大会に飛び入り出場した髙選手は、その実力でスタッフ陣やチームメイトからの信頼を勝ち取り、見事代表入りを果たした。
韓国代表で『勝負へのこだわり』を体得し、福島県の強豪・尚志高校へ入学
 「韓国代表からは並みならぬ“勝負へのこだわり”を感じました。『スピード、パワー、テクニック、メンタル。この全てで常に相手を圧倒しなさい』という指導を受けましたし、13歳という育成過程においても、勝負や結果に対する考え方が徹底されていました。何よりも試合において実用的なスキルを最優先するので、今までとはまた違った感覚がありましたね」
   
 その中でも髙選手は自身の存在意義をしっかり示し、その後も、U‐14カテゴリーからU‐18カテゴリーまで入れ替わりの激しいサバイバルを生き残り続けた。「当時から海外でプレーする選手が増え始め、国内組と海外組の競争が相当激しくなった印象です。でも、この時に体得した勝負への感覚はその後のサッカー人生において非常に大きな経験となりました」。
  
 髙選手はその後、柏レイソルで育んだ『インテリジェンス』と、韓国代表で体得した『勝利への執念』を手に、福島県の強豪・尚志高校へ入学する。
 
 「高校卒業と共にプロになることが目標だったので、それぞれの選手の個性をより伸ばしてくれる仲村先生のもとで勝負しようと、尚志高校に入学することを決断しました」。
  
 髙選手は高校1年生時から主力選手として抜擢され、持ち前の運動量やボール奪取能力を遺憾なく発揮し、冬の高校選手権では自身の得点で優勝候補であった桐光学園を破るなど、チームのベスト4進出に大きく貢献した。
 「その時の選手権は、震災があった年だったので、チームの一致団結がより強固なものになりました。『地元に勇気を与えよう』『全国で活躍して希望を与えよう』の一心でしたし、『自分以外の誰かの為に』といった使命感から来るパワーの素晴らしさは、尚志高校で学ぶことが出来ましたね」
   
 そして、堅守速攻サッカーの中心として活躍し続けた髙選手は、夢であった高卒プロを手繰り寄せることになる。複数のJクラブへの練習参加を経た後に、J3長野パルセイロから入団の打診があったのだ。
 「両親や監督と相談をさせていただくなかで様々な意見がありましたが、自分のなかではプロになると決心していたので、長野パルセイロからお話を頂いて、すぐに決断することが出来ました」。
    
 尚志高校でたしかな実績を残した髙選手は、長野パルセイロからプロサッカーキャリアをスタートさせることになる。
紅白戦にすら出れない時も。「努力不足に気付けなかったのが自分の弱さだった」
 自身の夢であったプロサッカー選手になれたが、ここからが本当の試練だった。長野パルセイロの目下のミッションはJ2リーグ昇格であり、チームを勝ちに導き、チームを負けさせないような、即戦力の選手が必要とされていた。
 当時18歳の髙選手は、そのポテンシャルを買われ入団を実現させたものの、チームの勝敗を握るような経験値があるとは未だ言えない状態だったのだ。
  
 「もちろん18歳と、プロで長年やってきたようなベテラン選手とでは大きな差があることは理解していましたが、J2昇格を目指し日々の勝負にこだわるなかで、自分のポジションを掴めなかったのが非常に悔しかったですね」。
  
 当時の悔しさを噛み締めがら、更に振り返る。
  
 「まったく試合に絡めないまま1年が過ぎてしまいましたし、紅白戦にすら出れない時もありました。その時はさすがに『何をしているんだろう』と悔しく不甲斐ない気持ちになりましたね。ただ、その後に気づくことなんですが、自分のポジションを掴めなかった最大の要因は、自分の努力が足りていなかったということに尽きるんです。壁にぶつかった当時、自身の努力不足を直視できなかったのが、自分の弱さでした」。
  
 では、その弱さを直視し、自らの姿勢を刷新できたのには、どのようなきっかけがあったのだろうか。
  
 「プロ3年目の年に、J1でプレーされていたベテラン選手たちがチームに加わったんです。この出会いが僕にとってはとても大きなきっかけとなりました。有り難いことに普段からその先輩たちにお世話になっていたのですが、日常生活からサッカーに懸けていることが垣間見えてきて。食事も緻密に考え、試合前や試合後も、その時々に合ったトレーニングを行い、日々アップデートすることを怠っていませんでした。その時に、『試合に出ている選手が努力をしていて、試合に出ていない僕が全然努力をしていないじゃないか』と痛感したんです。その辺りから、しっかり自分と向き合うようになりました」。
JFL通算100試合出場達成。「挫折をしたJリーグの舞台に戻りたい」
 
 長野パルセイロ、グルージャ盛岡を経た髙選手は、2017年に当時JFLに所属していたブリオベッカ浦安に完全移籍。その後、2018年に東京武蔵野シティFC(現東京武蔵野ユナイテッドFC)にやってきた。そして、数多くの試合に出場し、チームの要として、勝利に貢献し続けてきた。
   
 「たしかに100試合出場を達成した時は大きい数字だと感じましたが、身近には、300試合出場を達成された先輩もいるので、その選手たちに比べると、自分はまだまだです」。
 
 JFLは非常にタフなリーグだ。プロサッカーの世界では、サッカーそのもので自身の価値を証明することが求められていたが、JFLでは、その傍らで仕事を持つ選手が大半である。タイトなスケジュール、フィジカルコンディションの維持また向上、仕事とサッカーの両立におけるモチベーションの管理など。様々な側面でのセルフマネジメントが要求されるリーグでもある。
   
 「普段の仕事とサッカーを両立するなかで、厳しいスケジュールをこなさないといけない。暑い夏の日中に試合を行うこともあれば、日帰りで遠征に行くこともある。仕事の面でも、サッカーを行う為に働くというよりかは、ビジネス的なキャリアもしっかりと構築していきながら、サッカーの面でもパフォーマンスを発揮するなどといった、『デュアルキャリア』を歩まれている選手も数多くいます。そのような中で通算300試合出場を達成するのですから、とてつもなくタフですし、相当なプロ意識が必要になってきますよね」。
 
 「JFLには本当に強いチームが多いんです。シーズンを通して波があると、JFL昇格圏内に入ることは出来ませんし、一試合一試合を巧く運ぶ必要があります。試合巧者であり、1年間を通した“リーグ巧者”でなければいけません。そういった意味でも、チームとしての総合力が求められますし、個人的にも、安定的に闘える選手を目指し続ける必要があると思います」
 
 このタフなリーグを闘い抜いてこそ、Jリーグの舞台に返り咲けると信じ、これからも高みを目指し続けて行く。
 最後に、今後の目標について伺った。
   
 「挫折を経験したJリーグにもう一度挑戦したいです。努力をすれば必ず報われるという訳ではないですが、努力をしなければ報われることはありません。これからも自分の好きなサッカーに懸けていきたいと思います」。
   
 東京武蔵野ユナイテッドFC・髙 慶汰選手は更に挑戦を続け、我々に良いニュースを届けてくれるだろう。
写真提供:東京武蔵野ユナイテッドFC